道徳の教科化をどうみるか   東京・生活者ネットワーク学習会

2018年に小学校で、2019年には中学校で「特別の教科 道徳」が始まりました。道徳教科書の内容の問題もさることながら、「教科化」そのものの大きな問題点を講師の池田賢市氏(中央大学文学部教授)は指摘していました。

講師の池田賢市氏
中央大学文学部教授で、共生や人権をめぐる諸課題について研究している。

教科化とは、評価をするということですが、心を評価することはできるのでしょうか?

池田氏は、「道徳的判断は、きわめて具体的で個別的な生活の中で実行され、学ばれる。人々は、日常生活の中でその時々の状況に応じて行動を選択し、一般化することは難しく、数学などの教科と比べ、カリキュラムを組むことは困難だ」と言います。また、例えば「やさしさとは?」という問いに対して、歴史的にどう語られてきたか、など過去の哲学的・倫理的な課題として学習するなどが予定されているわけでもないようです。

文部科学省は、道徳には正解はなく、考え、話し合う授業を行うというが、実際の教育現場では「正しいこと」を「教えて」しまうこともあるのではないでしょうか?

例えば、小学1年生の副読本で取りあげられている「かぼちゃのツル~わがままばかりしていると~」をみると、すでに話し合う前に、好き勝手につるを伸ばすカボチャはわがままと決めつけている、そして最後には、伸ばしたツルが道に広がって自動車にひかれて切れてしまう。わがままは体罰を受けても当然とも受け取れる内容。これでは自由な発想の意見が出ない。例えば、畑が狭すぎてカボチャがかわいそうなどの意見は出なくなってしまうのではないでしょうか。子どもは何が評価されるのか感じ取って、評価されるであろう「わがままはいけない」という発言をしがちなのではないでしょうか。

文部省によれば、まず評価の形式として次のことを確認しています。
①数値や記号による評価ではなく、記述式の個人内評価とする
②他者と比較せず、その子どもの良いところを励ますような内容とする
③個別の内容項目ごとの評価ではなく、「大くくり」での評価をする。

また、具体的に評価の視点について次の2点を示しています。
①一面的な見方から多面的な見方に変化したかどうか
②道徳的価値を自分自身とのかかわりのなかで考えているか

評価については配慮されているようにもみえますが、やはり問題は「評価する」という行為そのものにあります。心の状態を評価することで、子どもは、心の状態は評価できグレードがあるという間違ったメッセージを受け取ってしまいます。

戦前の道徳教育であった「修身」は、学校制度の中で、重要な科目と位置づけられ、教育勅語とともに、国民の思想や価値観を統一していくために利用された歴史があります。
池田氏は、「人の内心のあり方を公権力が問題視してよい」となったことを危惧し、そこには近代社会の内なる監視システムの要素があるとまで言及していました。

教育現場では、それぞれの教師による指導で、子どもたちが受け取るメッセージもかわってくるでしょう。心に残る素晴らしい授業もあるかもしれません。しかし教科化ということの持つ根源的な「危うい面」も知っておかなければいけないと思いました。

**イジメと道徳教育**

2010年代、中学生がいじめを苦に自らの命を絶ったり、少年らの暴行によって死亡したりといった事件が報道され、社会に衝撃を与えました。当時の松野文部科学大臣はそれらを踏まえ、2016年に「『特別の教科 道徳』の充実が、いじめの防止に向けて大変重要である」というメッセージを発信しました。

道徳の授業は、イジメの防止に有効かということも、よく考えていく必要がありそうです。心の内面まで評価されグレードがつけられることで、排除がおこり、イジメが助長されていくことが心配です。

池田氏は、大学教授として学生と接していますが、最近10年ぐらい学生の意識の変化を危惧していました。社会科の教職課程の勉強をしている学生から「教師は、政治的に中立でなければいけないから、選挙には行ってはいけないですよね」といわれた時は驚いたそうです。

今の大学生たちは、どんな教育を受けてきたのでしょうか。道徳教育に限らず、自分で考え行動できる、民主主義の主体となれるような人を育てる教育であってほしいです。

8月7日 東京・生活者ネットワーク会議室にて

(福生ネット会員 黒澤)

池田氏も執筆者のひとりである季刊社会運動「学校がゆがめる子どもの心」この講座は一般社団法人市民セクター政策機構の補助があります